別れ  アルチュウル・ランボオ(小林秀雄訳)

 

もう秋か。——それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺達はきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、——季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。
 秋だ。俺達の舟は、動かぬ霧の中を、纜〔ともづな〕を解いて、悲惨の港を目指し、焔と泥のしみついた空を負ふ巨きな街を目指して、舳先をまはす。あゝ、腐つた襤褸〔らんる〕、雨にうたれたパン、泥酔よ、俺を磔刑〔たくけい〕にした幾千の愛欲よ。さてこそ、遂には審かれねばならぬ幾百万の魂と死屍とを啖〔く〕ふこの女王蝙蝠〔かうもり〕の死ぬ時はないだらう。皮膚は泥と鼠疫〔ペスト〕に蝕〔むしば〕まれ、蛆虫〔うじむし〕は一面に頭髪や腋〔わき〕の下を這ひ、大きい奴は心臓に這ひ込み、年も情も辨〔わきま〕へぬ、見知らぬ人の直中に、横〔よこた〕はる俺の姿が又見える、……俺はさうして死んでゐたのかもしれない、……あゝ、むごたらしい事を考へる。俺は悲惨を憎悪する。
 冬が慰安の季節なら、俺には冬がこはいのだ。

 ——時として、俺は歓喜する白色の民族等に蔽〔おほ〕はれた、涯〔はて〕もない海浜を空に見る。黄金の巨船は、頭の上で朝風に色とりどりの旗をひるがへす。俺はありとある祭を、勝利を、劇を創つた。新しい花を、新しい星を、新しい肉を、新しい言葉を発明しようとも努めた。この世を絶した力も得たと信じた。扨〔さ〕て今、俺の数々の想像と追憶とを葬らねばならない。芸術家の、話し手の、美しい栄光が消えて無くなるのだ。

 この俺、嘗〔かつ〕ては自ら全道徳を免除された道士とも天使とも思つた俺が、今、務めを捜さうと、この粗々しい現実を抱きしめようと、土に還る。百姓だ。

 俺は誑〔たぶら〕かされてゐるのだらうか。俺にとつて、慈愛とは死の姉妹だらうか。
 最後に、俺は自ら虚偽を食ひものにしてゐた事を謝罪しよう。さて行くのだ。

 だが、友の手などあらう筈はない、救ひを何処に求めよう。

     *

 如何にも、新しい時といふものは、何はともあれ、厳しいものだ。
 俺も今は勝利をわがものと言ひ切れる。歯噛〔はが〕みも火の叫びも臭い溜息も鎮まり、不潔な追憶はみんな消え去る。俺の最後の未練は逃げる、——言はば乞食、盗賊、死の友、あらゆる落伍者の群れへの嫉妬だが、——復讐成つた以上は亡者共だ。
 断じて近代人でなければならぬ。
 頌歌はない、たゞ手に入れた地歩を守る事だ。辛い夜だ。乾いた血は、俺の面上に煙る、このいやらしい小さな木の外、俺の背後には何物もない。……霊の戦〔いくさ〕も人間の戦の様にむごたらしい、だが正義の夢はたゞ『神』の喜びだ。

 まだまだ前夜だ。流れ入る生気とまことの温情とは、すべて受けよう。暁が来たら俺達は、燃え上る忍辱〔にんにく〕の鎧〔よろひ〕を著て、光り輝やく街々に這入らう。

 友の手が何だと俺は語つたか。有難い事には、俺は昔の偽りの愛情を嗤〔わら〕ふ事が出来るのだ、この番〔つがひ〕になつた嘘吐き共に、思ひ切り恥を掻かせてやる事も出来るのだ、——俺は下の方に女共の地獄を見た、——扨〔さ〕て、俺には、魂の裡にも肉体の裡にも、真実を所有する事が許されよう。

 (註 「遂には審かれねばならぬ」「魂の裡にも肉体の裡にも、真実を所有する事」には傍点が付されている)

 昭和4年から5年にかけて出版された詩書を眺めていると、5年10月に小林秀雄訳の『地獄の季節』が刊行されていることがひときわ目を惹く。「今週の詩」では、これまで森鴎外の『於母影』、上田敏の『海潮音』、永井荷風の『珊瑚集』、堀口大學の『月下の一群』を紹介してきたが、小林秀雄訳の『地獄の季節』はそれらの訳詩集と同じく語ることはできない独自性をもっている。これまでの訳詩集には、訳者の趣味的、余技的傾向があったのに対して、小林秀雄は、翻訳だけではなく、「ランボオ」論を書きあげるほど、ランボオと正面からぶつかりあった。これは、前年に発表された「様々な意匠」とともに、小林秀雄の重要な文学作品といえるもので、ランボオを読んでいるのか、小林秀雄を読んでいるのか、わからなくなるが、ことばの強度は読む者を捕らえて離さない。「詩人が批評家をその内にもたないことはありえない」というボードレールのことばを思い出しながら、小林秀雄訳『地獄の季節』が日本の近現代詩にもたらしたものはなんだったのか。昭和のはじめ——それは日本現代詩の胎動期であった——にこの『地獄の季節』が出現したことは、「事件」であったといえよう。長い詩を打ち込むのはしんどい作業だが、一語一句、確かめるようにキーボードを叩いた。(09.09.14 文責・岡田)